キリスト教弾圧開始


ローマ教会に一つの報告がもたらされた。ポルトガルのイエスズ会が日本に派遣していた クリストファン.フェレイラが長崎で「穴吊り」の拷問をうけ棄教を誓ったというのである。

日本における布教が困難な状態にあることは宣教師たちの書簡でローマ教会にももちろんわかっていた。
1587年以来日本の太守秀吉が従来の政策を変えてキリスト教を迫害しはじめると、まず長崎の西坂で 26人の司祭と信徒達が焚刑に処せられ、各地であまたの切支丹が家を追われ、拷問を受け、虐殺されはじめた。

長崎奉行竹中卯女は彼らを棄教させ、もってわれらの聖なる教えとそのしもべを嘲笑し信徒の勇気を挫こう とした。だが卯女は、やがて言葉では神父たちの決心を変えさせることができないことを知った。そこで別の手段 を用いる決心をしたのである。それは他でもなく、雲仙地獄の熱湯で彼等を拷問にかけるこ事であった。

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<フェレイラ>

フェレイラは当時イエスズ会日本管区代理管区長イエスズ会員たること37年、日本で活動すること 23年の立派な働き手であったフェレイラ神父は、1633年10月18日、長崎の西坂刑場で、 イエズス会のジュリアノ中浦、アントニオ・ソーザ、日本人ペトロとマテオの両修道士、ドミニコ会のルカス・デル・ エスピリット・サント神父と日本人フランシスコ修道士らと共に穴吊りにされた。穴に入れられて5時間後に転んだ。

拷問をうけ棄教したフェレイラは後に日本人妻をめとって沢野忠庵と名乗り、キリシタン目明かしとしてキリシタン取り締まりに協力、 踏み絵を管理、保管した。名前を変えられ自分が生涯かけて信じてきたキリスト教を不正とただしながらも生き続けた。

後に「天文備用」「南蛮流外科秘伝集」などによって西洋天文学や南蛮外科医学史に功績を残したとはいえ、その宗教的人間性が失われたことは 疑えない。

他の人々は皆長い拷問にたえて、真の信仰の証人になった。一緒にこの刑をうけたジュリアノ中浦神父は65歳の老体で26日まで 苦しみをしのぎに殉教した。この人はかっての遣欧少年使節の一人である。

最後まで生きていたのはドミノコ会のルカス神父で多分、9日目に息を引き取ったといわれている。

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<穴吊り>

キリシタンたちに加えられた責め苦のうち、穴吊りはもっとも残酷な方法であった。

内蔵が下がってすぐ死なないように体を縄でぐるぐる巻きにし、頭に充血するのを防ぐため、小さい穴を あけておく、そしてできるだけ苦しみを長引かせる。

ひどい役人のときには、穴の中に汚物を入れておいたり、穴の外の地上で騒がしい音を立てて神経を刺激させて苦しみをひどくした。

(同じ人間をロースハムのように縄で巻き苦しみを倍増させるため体にあなをあけるとよくそんなことを考え 実行できたものだと思った。「穴吊り」と初めて聞いたときは何のことか想像もつかなかった。「穴吊り」 を描いた図を見たときは物覚えが悪いわたしのあたまでさえ、一瞬にその絵が焼きついた。 日本人が外国人に嫌われる理由が過去の過ちからよくわかる。)

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<26聖人>

---殉教原因---

サン・フェリッペ号、それは1596年サン・フェリッペ号というイスパニアの大船がマニラからメキシコに航行中 、暴風に吹き荒らされて土佐の浦戸に漂着した。数名の宣教師が便乗し若干の武器や、莫大な貨物を積んでいた。

増田長盛が没収のためにサン・フェリッペ号におもむいた時、パイロットのオランデイヤが世界地図を見せて イスパニアの領土の広大なのを誇り、「どうして広大な領土を手に入れたか」と長盛が反問したとき、 「まず宣教師をやって布教させ、後に兵をやって占領するのだ」と答えたので、秀吉はイスパニア人宣教師 を処刑させるにいたったという説がある。

しかし、これは次の会話が曲解されて言いふらされたものと考えられている。
「増田はなぜ神父たちを同道するのかとたずね、パイロットは船員に宗教の務めををさせたり、また誰かが 死ぬような場合によい臨終をさせるためと彼らと接触する国々でキリシタンに入りたいと望む住民をキリシタンに するために神父を同道するのだ、と答えた」というのである。

本当の原因は秀吉がサン・フェリッペ号の貨物を没収したことを合理化するためにとった策だったようである。

---なぜ26人なのか?---

はじめは、リストにのったのは多数であった。しかし、石田三成が最小限の人数、すなわち秀吉が処刑令 を下してしまったことに面子がたつだけの人数にとどめた。

イスパニヤ人たるフランシスコ会宣教師と修道者 6人、彼らの指導を受けていた信者14人、それに行きがかりとらえられたイエズス会関係者の日本人3人の 投獄を命じた。それに、名簿にないのに頼み込んで捕らえられた少年ルドビコと道中で人数に加えられた2人 の合計26名が殺されることになった。

---京都から長崎へ---


逮捕された一行は耳朶を切り落とされ、鼻を削がれ、大八車で京都・大阪・伏見・堺を引きまわされ、 陸路、大阪ー下関ー博多ー名護屋ー彼杵から船で時津へー時津街道ー浦上ー長崎浦上についた。

極寒の季節、捕縛されたまま、約1ヶ月の死への行進であった。西坂に着いたのは、1597年2月5日 の午後5時頃であった。着物を脱がされ、ただちに刑が執行された。

---パジェスは「二六聖人殉教記」の中で次のようにその惨状を描写している---


「彼らは槍の柄をはらい、各々の殉教者の両脇を刺し、脇腹から反対の側の肩まで貫いた。一度で足らぬ時は、 二度までこれを繰りかえした。その時居合わせた吉利支丹等は一斉に”ゼズス・マリア”と叫んだが、 その衝激の声は天の星座にまで達した。」と...

(捕縛された人は、信仰に殉して生命を失うことを無上の光栄として喜びを迎えた。自分の死が目のまえに近づいて、しかも無罪なのになぜこう思うことが できるのか不思議でわたしは、心の中をかたい金属器で削られるような痛みがはしった。)

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<雲仙地獄>

雲仙地獄でキリシタンを苦しめるという拷問を発案し、実行し始めたのは島原領主松倉重正である。
1627年2月28日、雲仙地獄の熱湯が初めてキリシタンたちの肌を焼いた。パウロ内堀作右衛門ら 16人、その中には女と子供もいた。

人々は硫黄の熱湯を体にぶっかけられながら、声をだして祈り、賛美歌を歌った。役人はこの人々に猿ぐつわ をはめ、熱湯に押し沈めて殺した。

マグダレナという婦人は柄杓で熱湯をかけられ、湯壺につけられた。 まるで皮膚をなまはぎされたようなひどい有様だった。

翌1628年には責め苦の方法が変わった。徳川幕府がキリシタンに拷問を加えたのは、殺すことよりも 転向させることが主目的であり、まず転向させ、転向しない者は殺すことにしていたのである。

---長崎からの「山入り」---

1629年から長崎奉行竹中卯女が松倉重正から勧められて、長崎の牢にいるキリシタンたちを雲仙に 連れて行った。

長崎旧記にはそれを”山入り”と記してある。長崎から茂木にでて乗船、千々石灘を渡って 小浜に上陸し、ここから雲仙に登るのである。

最初の犠牲者は64人、そのうち27人が女だった。

洗礼名をイザベラという朝鮮婦人は、2時間も憤気口の側の石の上に立たされていた。翌日は手足を縛って 裸の体に熱湯をかけられた。

「キリシタンを捨てないなら、10ねんでも20年でもこの責めをつづけるぞ」 と役人が言ったとき、イザベラは答えたという。
「10年、20年は束の間のこと、100年でも私が 生きている間はこの責めをしのぎまする。」

拷問13日、飲まず食わず、そして眠ることもできないで痛めつけられ、傷だらけの体になってイザベラは もう立つこともできなかった。奉行は転び証文をつき出し、イザベラの手をとって爪印を押させてから 長崎に連れ帰した。けれどもイザベラは信仰を捨てたのではなかった。

(あまりの残酷さに寒気がはしった。よくもこんなことを思いつき、実行できた者は、 もう人間の精神を持たない別世界の生物と化したのではないかと思った。)

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